岩手県立美術館

vol.45 一枚の絵の前で

学芸普及課長 大野正勝
2014.03

家族、友人、職場のスタッフ、私たちは毎日何人かの人たちに出会い、様々な会話をして行動をともにする。そのなかで会話の相手は何を考えどんな性格なのかということも理解し合うけれど、多くの場合は、相手の反応や返答を求めようとする社会的なかかわりによる相互のコミュニケーションであり、その内容も言葉や行動で説明できることが多い。
しかし、相手には世界がどのように見えているのか、世界とその人自身との関係のなかで何を感じ考え、またどのような心持ちの状態にあるのか、そうしたことまでは会話や行動を少し共にした程度ではなかなか分からない。
でも不思議議なもので、それらは美術作品という芸術表現の場に現れている。例えば何人かで同じ人物(モデル)を描いたとしよう。当然ながら十人十色の絵になる。一人一人の絵(画面)の表情や表現の違いを言葉で説明することは容易なことではない。その違いを「個性」という言葉で片づけたり、「○○さんを描いた人物画です」と言ってしまえば、一枚の絵と見る人との深いかかわりはそこで終了してしまいそうな気がする。画面に描かれたもの。それは、すなわち作者が見ている目の前の世界に対して感じていることや思いの現れなのだけれど、私たちは、そうした作者の目を通して世界を見たり、心の状態を感じ取ることで、無意識のうちに作者とのかかわりのための入口を画面に見つけている。そこから作者の世界に足を踏み入れてゆく。作者と私たちが対話することができるかどうかは、まさにそこから。
絵を見るということはそう単純なことではない。私たちは絵を見て、誰々を描いた人物画、林檎と蜜柑の絵、○○川の景色などというように、描かれた内容そのものについて認識すると同時に、いつのまにか画面の色合いや絵具の表情、視覚的な奥行き感、あるいは筆づかいに現れる作者の呼吸のリズム、作者固有の癖のようなものまで、言葉では説明しにくい生身の作者自身の総合的な情況も感じ取り、作者の生々しい感覚や身体性のようなものまで意識しているのである。

杉本みゆき《青いゆくえ》2010年、当館蔵

さらに、自らの感覚と経験、記憶を総動員して、画面全体から伝わってくる作者が語りかけようとする何かを感じ取り、そのことについて考え、そしてまた画面に戻って作者とやり取りする。その繰り返しによって作者が語りかけてくるものが見えてくる。作者が伝える内容は必ずしも美しく心地良いものばかりとは限らない。胸を重苦しく締めつけ、見る者を深い闇のなかに捉えてしまうものもある。どちらの場合も作者の語りに私たちの感情が共振したときのこと。心の琴線に触れるということなのだろう。そうしたことなどを経ながら少しずつ一枚の絵を了解してゆくことで、作者が描きたかっただろう此処にない未だ見ぬ世界というものが、混沌の霧の向こうに少しずつはっきりしてくるのである。
でも、言葉になどしない方がいいのかも知れない。言葉にすることで、一枚の絵が何ともつまらないものに思えてしまい兼ねない。しばしば、「この絵は何を意味しているのですか」という質問を耳にする。その回答を求める側からは、名詞で置きかえられるような概念的な状況を説明してもらって安心したいという期待感が伝わってくる。美術は名詞などで説明できるものごとであったり、何かの概念をあらためて説明するためのメディアではない。言葉にするということは多少なりともそうなる危険性を孕んでいる。そうではなく、「この絵はいまここに見えている通りのもの」と素直に一枚の絵を前にして、言葉にはできないかも知れない混沌とした複雑な状態をそのまま受け入れることのほうが楽しい。芸術は、それを見る人の想像の世界のなかに立ち現れるものだから。

岩手県立美術館

所在地
〒020-0866
岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
電話
019-658-1711
開館時間
9:30〜18:00(入館は17:30まで)
休館日
月曜日(ただし月曜日が祝日、振替休日の場合は開館し、直後の平日に休館)
年末年始(12月29日から1月3日まで)