岩手県立美術館

vol.70 世界に潜む不明なるもの

首席専門学芸員兼学芸普及課長 大野正勝
2016.4 

 子どもにとって外界は未知なるものが充満する世界だけれど、世界はそういうものなのだと子どもは捉え理解している訳ではなく、無意識のうちに世界の不明なるものと関わっていて、その一つひとつを解明して認識しようと努めている。そうした作業はその後も生涯に亘って続けられるのだけれど、それが果たされるのは日常生活で必要となる事柄や事象など名詞に置き換えられて言葉で説明される概念的なものごとがほとんど。それは私たちの周囲に広がる世界を形成しているもののたぶん半分くらいだろうか。
 それ以外の半分を占めるもの。たとえば漠然とした不安や恐れ不明なものに対する想像、感覚や感情に作用する言葉では説明し難い曖昧なもの。美術や音楽のようなものも含まれる。それらは身の危険という緊迫した事態のことではないまでも、多くの場合、得体の知れない気配のようなものとして存在していて、不明な状態を陰のように常に孕んでいるが、それらすべては世界と自分自身のとの関わりから生じている。そうであれば、曖昧で漠然としているのは世界そのものではなく、世界と関わる私たち自身の内面なのである。世界は不明なのではなく見える通りにそこにある。
 岩手県立美術館では松本竣介の油彩画や素描画を多数所蔵している。その油彩画の中でも戦前戦中に描かれたものは竣介ファンにとっては堪えられない魅力を湛え、それを形容するものとして「詩情」という言葉をしばしば目にする。この場合の「詩情」は多分に「抒情」に通じているのだと思うが、この言葉に出合うたびに私はいつも少しばかり困惑した気持ちになる。
 竣介の最初期の油彩に《春のスケッチ》(当館蔵)という絵がある。竣介17歳の年、1929(昭和4)年の春に描かれたもの。竣介はちょうどその頃に上京しているので、これは盛岡か東京かどちらの景色なのだろう。いずれにしても印象深い絵だ。板に描かれていることが影響しているためか画面から硬質な印象を受け、それも魅力になっている。画面の周辺は少しぼやけたように曖昧だが、それとは対照的に中央部分は比較的はっきり描かれている。それは記憶の中にあるおぼろげな影像のようでもあり、夢に出てくる不合理で曖昧な影像のようでもある。絵具の塗り方にも目が留まる。この絵の特徴でもあるが、画面のどの部分をとっても混色され濁っている。すっきりしていない。悪い意味でそう言っているのではない。17歳という多感な頃、自身を取り巻く世界に対するセンシティブな感情をそのまま画面に転化させたような、またそこに大人の感情も込めようとした青春の絵だ。後に影響を受けたとされるモディリアーニやルオーの影が感じられない画面。
 描かれたこの景色。丘状になった耕される前の春の畑か草原か、その向こう木々の茂みが荒々しい筆致で描かれ、それらに取り囲まれるように西洋風な民家がひっそりと佇む。その民家に通じるのだろうか小道のようなものも認められる。そんな景色が汚れた壁のように描かれた空を背景に映し出されている。青年期の複雑な感情を孕んだような画面から瑞々しく生き生きとした感情が迸り出て若い命が伝わってくる。この作品の右下には、まだ絵具が乾かないうちに鉛筆のようなもので引っ掻いた「春 スケッチ」という言葉が刻まれていて、それがタイトルにもなっているのだが、私にはその言葉がこの絵の内容を正に象徴しているように思う。青春期の竣介の漠然とした不安や不明なものや複雑な感情が満ちていて、なぜかH・ヘッセの初期の小説に描写されていそうな情景ともオーバーラップして印象深い一点となっている。

松本竣介《春のスケッチ》1929(昭和4)年、油彩、板

 汚れたと書いたが、実はそのことが重要に思われるのだ。この絵に描かれたものは輪郭線も対象の形体も曖昧、筆致も色彩も複雑で雑多、空に至っては汚れた壁のようだ。もしもこの景色がすっきりとした色彩と輪郭、形体で描かれていたとしたらどうだろう。それはそれで興味深い絵になるかも知れないが、ここまで、世界と自分自身に対して抱く不明快さと不安、焦りや苛立ち、自身でもコントロールしがたい整理のつけがたい複雑な感情が伝わってくるだろうか。世界も自身も混沌とした不明な状態にある。分からないもの不明な状態のものは実は奥深い。この絵の作者・青年竣介は想像という時空の中で、それらと苦しい対話をしていたのではないだろうか。汚れた(複雑な)画面はそのことを切ないまでに物語っている。ここでは「詩情」という言葉は似合わない。

岩手県立美術館

所在地
〒020-0866
岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
電話
019-658-1711
開館時間
9:30〜18:00(入館は17:30まで)
休館日
月曜日(ただし月曜日が祝日、振替休日の場合は開館し、直後の平日に休館)
年末年始(12月29日から1月3日まで)